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銅鐸から銅鏡へ、大量のモモの種は何?

耳の部分が欠けた銅鐸
06卑弥呼の半世紀は平和が続いた
画文帯神獣鏡 奈良県立橿原考古学研究所 阿南氏撮影
1979年の調査で、銅鐸の飾耳が見つかった。2世紀末から3世紀前半にかけては、纒向の三輪山周辺では神祭りのシンボルであった銅鐸が、破壊されるという事態が次々と起こったようだ。
銅鐸は日本独自で発達した弥生の祭祀具だが、なぜ壊されて埋められたのか?
卑弥呼が登場する2世紀後半。東アジア一帯で天候異変が続き、各地で暴動が起き、中国では「黄巾の乱」(184年)で後漢が滅び「三国時代」に移る一因となった。
倭国でも農作物の不作が続き、ひたすら銅鐸を鳴らし神に祈ったが、なかなか好転しなかった。ついに人々は「弥生の神」を捨てたのか。
その新しい神のシンボルとなったのが「鏡」であった。
邪馬台国の女王・卑弥呼は、西暦239年に中国の魏に使者を送り、その見返りに「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚を贈られた。そして鏡は、国内で作られたものを含めて近畿を中心に各地で発見されている。
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07卑弥呼が、神に供えた神饌?「モモの果実」

2700個を超えるモモの種(桜井市教育委員会)
この時代の最大の建物跡と注目を浴びた居館の柱跡のすぐ南の土抗から2700個を越えるモモの種や魚、動物の骨などが見つかった。
これだけの大量のモモの種は一体何に使われたのだろうか?
「鬼道に事(つか)え よく衆を惑わす」と魏志倭人伝に書かれた卑弥呼は、千人のお付きの女性たちに囲まれて生活した。決して人前には姿を見せず、唯一面会を許されたのは男弟だけ。卑弥呼は生涯ほとんど外にはでなかったと考えられている。
中国の仙神思想では、モモは「仙薬」(仙人になる薬)として扱われ、不老長寿を叶えるものとして大切にされてきた。
女王として30の国々をまとめ、女王として君臨した卑弥呼。
この大型建物の主が卑弥呼だとしたら、ここにこもって不老長寿や平和を祈ったのだろう。そして祭壇には新鮮な海の幸山の幸、それに山桃の果実が供えられていた。
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