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3世紀初め頃、整然とした都市が纒向に出現した。(復元設計:黒田龍二、CG.NHK・タニスタ)

桜井市教育委員会が調査した ホケノ山古墳(1999年)
古墳時代の幕開けからヤマト王権への黎明を告げる
纒向遺跡の最大の特徴は、日本に初めて出現した巨大な前方後円墳「箸中山(箸墓)古墳」の存在。または、箸墓に先行する「纒向石塚古墳」「勝山古墳」「矢塚古墳」「ホケノ山古墳」など、国内でも最古の出現期の前方後円墳を抱えていることであろう。
つまり、この地で日本の古墳時代がスタートし、独特の前方後円墳の築造が始まった。 そして、邪馬台国を九州に考えようが、畿内に考えようが、この「纒向型前方後円墳」が全国各地へと広がっていく。ヤマト政権へと続く日本の国づくりは、纒向でその夜明けを迎えることに変わりはない。
2009年に発見された、当時の日本としては最大級の居館跡が、東西に一直線の軸線上に建てられていることがわかった。纒向は、それまでの弥生の「集落」には見られない建築設計の意図が持ち込まれたわが国で初めての「都市」であった。大陸の影響を少なからず受けながらも、わが国独自の思想と文化が萌芽し、「ヤマト政権」へと受け継がれる。
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纒向遺跡全体地図 (桜井市埋蔵文化財センター)
01 纒向遺跡は、わが国屈指の交通の要所
纒向遺跡は、奈良盆地の東南部にある桜井市の中でも、平野部の一番北、天理市との境あたりに位置する。
二上山から大阪に抜ける西方面の道と、伊勢方面に抜ける「伊勢街道」が東西に走っている。また、北に向かっては奈良方面に向かう「山の辺の道」や「上ッ道」という古代の道路が通っている。 さらに、南へは吉野へ抜ける「多武峰街道」あるいは宇陀へ向かう「松山街道」など他地域と大和を結ぶ多くの街道が交差する「交通の要所」となっている。
そして、こんな内陸にもかかわらず、水運も結構発達していた。
纒向遺跡のすぐ西南には大和川の支流「初瀬川」が流れている。1800年前は水量も多く、遺跡内には運河も建設され、大阪湾から直接物資を運んでいた。この様に纒向は3世紀の弥生時代終盤には陸路・水路が発達し、わが国屈指の「交通の要所」であった。
遺跡の川の中から見つかった7世紀(飛鳥時代)の土器片には「市」という字が書かれていた。また「日本書紀」には卑弥呼ではないかといわれる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)が「大市」に葬られたという記述もあり、各地の様々な産物が持ち込まれすなど、物流の一大拠点として「市」が開かれていたといわれる。
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全国各地から持ち込まれた土器類 (桜井市教育委員会)
02 全国から集まった人々が造った日本最初の大規模な都市
纒向遺跡は東西2km、南北1.5kmの規模。3世紀から4世紀にかけて約百年間、史上初の都市として繁栄する。都市遺跡の規模としては藤原京が出現する690年代まで、これをしのぐ大きな都宮は現れない。
三輪山の西麓に突然姿を現したまちは、人工的に造られた当時の日本屈指の規模の都市なのである。 それは、160次を超える発掘調査結果からもうかがえる。 纒向遺跡が当時の日本全国の他の遺跡と異なる一番の特長は、鍬(くわ)などの農耕具が極端に少ないこと。
一方「鋤(すき)」といった現代のスコップに当たる土木工事に使う道具が圧倒的に多いこと。 つまり農業を全くしない人たちが集まったのだ。
2つ目の特長は、纒向遺跡に住んでいた人たちは、非常に広範囲な地域から集まってきた。 出土する土器を分析すれば、西は九州・山陰から、東は東京湾沿岸から南関東、北は北陸地方から纒向に集まってきて、これらの外来系の土器は、実に30%前後にものぼる。つまり住民の3人に1人が、現代の都市のように外から、それも遙か遠方から集まってきているのだ。なかでもや尾張(愛知)伊勢(三重)が最も多く、調査結果では5割近くにのぼっている。
全国から人がかき集められ「倭国の都宮」を建設したという様子がうかがえる。
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朝鮮半島から持ち込まれた土器片 (桜井市教育委員会)
03 遠く海外からも技術者らが纒向にやってきた
纒向の街づくりには、遠く朝鮮半島からも技術者などが参加したことが少しずつわかってきた。 桜井市教育委員会の調査では、左の写真は、韓式系土器といわれる朝鮮半島系の土器。右の甕(かめ)は、3世紀中頃から少し後半に入った頃のもの。
2つめの左の黒っぽい土器は独特の釉薬(ゆうやく)の使い方から、楽浪(いまの北朝鮮から中国東北部)系の土器だと見られている。 また、纒向遺跡の中にあるホケノ山古墳からは画文帯神獣鏡であるとか、箸墓古墳の濠(ほり)の中からは、当時日本には乗馬の風習がないのに、足をかけて馬に乗るときに使う「鐙(あぶみ)」などが出土している。
さらに2007年に明らかになったベニバナの花粉の出土は、ここで高度な「染めもの」の工場があり、大陸から渡ってきた技術者が指導をしていたのではないかと見られている。 このように、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなる西暦248年前後には、三輪山のふもとには、日本の「首都」のような機能を持った纒向という都宮が、次第に威容を現してきた。
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